26:補習 ぺらり、と紙をめくる音と、かりかりかり、とシャープペンシルの先が削れていく規則正しい音だけが室内から響いている。
窓から斜めに差し込んできている陽光はオレンジ色で、頭を垂れてプリントに向き合っている長い黒髪の上を滑っては時折ごまアイスの上に生クリームオレンジソースがけを乗せたような色の光を投げかけている。
おっと、と、銀八は口元を拭う。甘い想像をしていたらつい涎が出た。
「どうだー、ヅラ君。もう上がりましたかー」
「先生、まだです。時間制限まであと30分はある筈です」
「いや、まーね、そうなんだけどな」
腕の時計をちらりと眺めると、針は生徒が言ったような時間を示している。だが、ジャンプももう読み終えてしまったし、ジャンプの懸賞にも書き込んでしまったし、何となく腹は空いたし、しかも、
「オメー、制限時間ぎりっぎりまで使うつもり?」
「当たり前じゃないですか。許された時間の間、すべてを隅々余すことなく使って見直しができるぐらいの余裕がなければ、再テストに対して失礼でしょう」
「いや、別に失礼ってこたねーけどな。大体今回の補習のテスト、お前がこの間登校途中で猫に見惚れて背後から来た自転車にぶつかられて、打撲した上に手をくじいたっつーからやってるだけだから」
「いちいち説明くさい語りを入れないでください。時間が無駄になってしまいます」
「へーへー、解ったからオメーもさっさと口閉じて終わらせろ」
言うとまた少しの間生徒の頭を見る。桂の長い黒髪がプリントの上に零れ落ちて、落ちてはそれを面倒そうに背の後ろへと払いのける。テストの間ぐれー結べばいいのによ、と思いながらも口にしなかったのは、髪を払いのける指先の白さが妙に目に焼きついたせいだからだろうか。
「……」
チッチッ、と腕時計の針の音だけが静かな室内に響く。後の音は、夕陽の差しこむ窓の外から聞こえてくる、体育会系の部活の暑苦しい声だけだ。
折角二人っきりだっつーのに、一ッ言もなしかよ。
教師にあるまじき言葉が頭を過ぎって消えて行く。無論、声に出したりはしない。大人だからね、俺は、と、視線をまた生徒の黒髪の上に戻しながら考えた。
折角の二人っきりの教室での補講っつったら、ゲームだったらフラグが立つシーンだよね。教師と生徒のいけない放課後補講教室、なんてタイトルがついちまう所だよね。
なのに現実はと言えば、テストを受けそびれた生徒の、きっちりと閉じた白いYシャツから覗く白い二の腕はシャープペンシルとテスト用紙の専属になっているし、視線もほとんどこちらなど見ることもない。
無論教師として、ある程度常識を――他の面々からは確実に否定されるだろうが自分なりには――備えた大人として、それが生徒にとっては当然のことだということも判っていたが、教師という立場を離れた一人の男としては、怪我でこのところ抱きしめることもまともにできなかった恋人が目の前にいて、しかも背徳的な雰囲気を醸し出す夕暮れの教室で二人っきりで、ストイックな薄着で座っていたならば。
軽く頭を振ると、煙草を咥えてそんな妄想を頭から追い払う。生徒からは距離も離れているし、頭上に禁煙というでかでかとした看板は貼られているが、いざとなったらこれはレロレロキャンディーですとでも言い訳すればいいだろう。ただ、今は無性に煙草が欲しい気分だった。
煙草に火がつくと、ライターの音か煙の香りで気づいたのだろう、黒い瞳がちらりと教卓の方を見たが、すぐにその視線はテスト用紙の方に戻される。
それで銀八は仕方なく、また煙草をくゆらせながら教卓に頬杖をついて、その白い煙の向こうに見える黒髪を眺めた。
……先生。
ふと、声が聞こえた気がして顔を上げる。気づいたら居眠りをしてしまっていたらしい。幸い煙草は無意識の内に携帯灰皿に落とし込んでいたらしく、時間を確認するとまだテスト時間終了まで少し時間があった。その二つを確かめてから黒髪の生徒の席を見ると、しかしそこに、銀八が居眠りをする前まで確かにいた姿はいなかった。
「ヅラくん?」
ばっと身を起こそうとしたら、何かの重みに邪魔された。そろりと頭を上げて傍らを見ると生徒用の椅子が教卓の教師用椅子の傍に寄せられていて、その上で、銀八の腕に寄りかかるようにして、試験を受けている筈の黒髪の姿が涎を垂らして眠っていた。
「もしもーし、ヅラくん?」
試験は制限時間ぎりぎりまで使うつもりですとか言ってたの、オメーだよな?
「ん……」
身じろぎした学生服の肩から、さらさらと黒髪が滑り落ちる。あまりに無防備に眠っていたので、口元から垂れた涎だけは指先で拭ってやったものの、教師は生徒を起こすことができなかった。
「……ったくよ。何がテストに対して失礼です、だ。まだテスト時間中ですよー。ヅラ君ー」
言いながら教卓の上を改めて見てみると、自分が突っ伏していた場所を避けて、折りたたんだテスト用紙が置かれている。
生徒を起こさないよう片腕だけを伸ばしてその用紙を確認する。名前欄と解答欄はきっちりとした文字で全て埋め尽くされており、ざっと見ただけでも多分に100点だろうと思われた。それとわかると息を短く吐いた銀八は、笑いとも苦笑とも溜息ともつかない音を口から押し出して、自分の肩に凭れた黒髪をそっと撫でる。
「――お疲れさん」
「……まだ、――テスト時間中です」
触れたことで起こしてしまったのか、閉ざされていた黒い瞳が僅かに開く。眠そうに瞬いて、またとろとろとした夢の中に戻りながら生徒が言った。
「ですから、……、ぎりぎりまで、……隅々、使う、――て、」
「あー、もう解ったから。制限時間ぎりぎりまで使わせてやっから」
何を言いたいか大体のところを察し、はーっと今度こそ大きな息を吐いた銀八は、眼鏡を外して教卓の上に置くと、かくりと傾いて銀八の肩に重みを全て預けた黒い頭を腕で支えてやりながら身を屈め、涎の跡の残る口元に軽く唇を寄せてそれを舐めとった。
「だから、だらしなく涎なんざ垂らして、先生信じ切って徹夜勉強の成果見せんのはやめなさい」
「……」
返事はなかったが、代わりに白い手が伸びてきて、行かないでくださいと言うように白衣を掴む。頭をがしがしと掻いて眼鏡をかけ直した銀八は、生徒の肩に腕を引っかけて熟睡する頭を胸元に寄りかからせてやりながら、火を点けないで新しい煙草を咥えた。
そして熟睡中の生徒の黒髪を撫でながら、ぼそりと言った。
テストの時間が終わったら、そっからは先生の個人補講タイムだ。覚悟しとくように。
fin
モドル
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