02:入試前夜(3Zver.)
かちゃり、と扉を開くとそこには受け持ちのクラスの学級委員長が立っていた。寒風が吹きすさぶ中を歩いてきたせいか頬が赤くなっていたので、まあ入れ、と身を横にして中に入れる。
「すみません、先生。夜遅くに」
「別に構わねーけどな。先生、もう寝ようとしてたんだけど」
「すみませんすみません。エリザベスももう寝てしまっていたので、先生しか頼れないんです」
「何」
扉が背後でがちゃりと閉じる音。チェーンかけて鍵閉じてこい、と声をかけると、とりあえず手元にあったイチゴミルクをマグに入れて電子レンジで軽く温める。
俺の秘蔵だからなと念を押すと背を丸めて申し訳なさそうに生徒が両手でマグを抱え込んだので、何となくそれ以上叱れなくなって向かい側の椅子に座って、銀八は口を開いた。
「――で」
「……」
問いかけたら、視線だけが帰って来た。
「――」
同じく黙って、いつものようなやる気のない眼を向ける銀八。
「……」
するとまたもや無言の視線だけが帰って来た。
「――」
面倒くさいのでまた視線だけを返し、テーブルの上に肘を置くと火を点けない煙草を咥えたままその肘の上に顎を乗せて銀色の眼鏡のフレーム越しにぐだっと相手を見る。
「……」
だがまたもや戻ってきたのは視線だけだった。いや、ミルクを啜る微かな音だけは一緒に聞こえてきた。
「でー。ロンゲカオスのヅラ君は、こんな夜中に先生ん家の冷蔵庫でも荒らしに来たんですかー」
結局、面倒の極地が行きついて、口を先に開いたのは銀八だった。そう問いかけると、学級委員長の少年は、慌てたように首を左右に振ってマグを置く。
「先生の家のわびしい上にそう好きでもないイチゴミルクを荒らしに来た訳じゃありませんよ」
「何その恩を仇で返す発言」
「すみません、つい正直に言ってしまいました」
至極真面目に返してくる生徒の頭をサンダルならぬスリッパで勢いよく叩き落としたとしても誰が文句を言おうかいやない。
「で、何しに来たんだおめーはよ。先生が飢えてたら襲っちまってんぞコノヤロー」
そこまで言ってからふと思い出して銀八は言った。
「第一お前、明日入試だろうが。いいのかこんな所にいて。徹夜で最後の詰め込み作業だの、諦めてゲームで遊ぶだのはしねーのか」
「徹夜で詰め込みしても逆に脳が働きません。諦めてゲームを遊んでも徹夜には変わりないです」
「だから何でそこだけ返すのお前」
「……」
問い詰めると再び生徒は黙り、マグを再び両手を温めるかのようにして抱え直す。嘆息をひとつ吐いて自分も温めていないイチゴミルク一リットルパックに直接口をつけて傾けると、先生飲み過ぎです、とまたもや声がした。
「いーだろ、俺が給料何に使って何食おうと」
「先生が腹痛で倒れると困ります」
「こんなもんで下すような腹はしてねーよ」
「まあそんな気はしなくもなくもないですが、もし万一天変地異が起きるようなことがあったら困るじゃないですか」
「何その異様になさそうな確率」
ぶつぶつ言いつつ結局途中でイチゴミルクのパックを下ろすと、再び自分に視線が突き刺さっていることを感じて、もう1度嘆息した銀八は、眼鏡を僅かにずらしてその上から相手を裸眼で見つめた。
「だから、何だっつーの」
相手の顔が少し赤らんだ気がした。え、何この反応。
「……その」
ようやく少し口を開く生徒の顔は、見間違いでなく何処か赤い。いや、だから何この反応。
「――先生、顔が赤いです」
「顔が赤いのはおめーだっての」
「なら、俺も先生も赤いです」
生徒に言われて何となく腕時計の盤面のガラスに顔を写してみるものの、微妙に赤いような気がしなくもない、程度で銀八にはよく解らない。
「赤くねーっての眼の錯覚だよ目の錯覚。で、何も言わねーんならご家族に電話しとくぞ」
「あ」
「何だ、されたくねー理由でもあんのか」
「……その、」
また口ごもった生徒は、しかし、今度はようやく口をまともに開いた。
「――眠れなかったんです」
「眠れねえ?」
「どうしても目を見開いたまま天井で羊を数えてしまって、目が冴えて眠れなくて、気づいたら先生の所に来てました」
一度口にすると怒涛のように言葉を紡いで、桂は学ランの上でぎゅっと目を瞑る。
「あー、面倒くせェ生徒と書いてヤツだな」
首を曲げて肩をとんとん、と拳で叩きながら銀八は言って、まだ目を閉じたままの相手の頭に腕を伸ばして頭をぐらぐら揺らすと、そのまま立ち上がった。
「今日は泊まってこっから試験会場に行け。落ちても俺のせいにすんじゃねーぞ」
「せ、先生!?」
「あと、羊数えたら気絶するまでぶん殴る」
客用布団などという便利なものはないので既に敷いてあった布団を足で押しやり、己の布団の下からマットレスだけを引きずり出してその上にシーツを投げる。
眠る支度ができたのはそれから10分程後。歯を磨いて顔を洗った生徒に銀八が自分のパジャマを貸し、少しだぶだぶするんですが先生中年太りですか、と言う生徒の顔面にスリッパの跡をつけてやりながら明日の準備を確認させ、意味のない国語の詰め込みを3分間だけやって、そうして布団に横になったのはそれから更に1時間程後のことだった。
「電気消すぞ。いいか、絶対に羊は数えんな」
「解ってます」
訪れた時よりも穏やかな声で桂が言う。腕を伸ばしてその薄い肩まで布団を引き上げてやった銀八も、伸びをすると眼鏡を外して枕元に置き、布団を引き上げて生徒の方に背を向けた。
……声が、聞きたかったんです。
電気を消すと声が聞こえた。薄目を片方だけ開き、ごろりと転がって声のした方を向く。ぼんやりと窓から入り込んでくる街灯の灯りにぼやけて見える輪郭は上を向いていて、その口の辺りが動いた。
――先生の声を聞いたら、……その、――落ち着くかと思って。
お休みなさい、とすぐ重ねるようにして言葉が聞こえて頭が銀八と反対の方を向く。微かに口端を上げて本日3度目ぐらいの、大体そのぐらいの回数の溜息をつくと、銀八は腕だけを出して生徒の方に伸ばし、額にその手を当てて答えを返した。
……明日の試験、落ちやがったらサンダル100連打な。
くしゃりと桂の前髪を掴んで緩く撫でてやると、手の下の顔が微かに熱を帯びて熱くなった。
はい、と声が聞こえた気がして、よし、と返す。
穏やかな少年の寝息が聞こえるまで掌を乗せていた銀八は、生徒が熟睡したことを知ると少しの間その寝顔を見ていた後で鼻の頭をひとつかき、赤くなった顔を誤魔化すように欠伸をひとつして自分も目を閉ざした。
「先生、今日も泊まりに来ました!」
「何深夜にまた泊まりに来てんだおめーはァァァア!」
「今日も入試なので。あ、調子が良かったと言ったら両親も許してくれたので、今日はきちんとお泊りセットも持ってきました。エリザベス枕も持参したのでご迷惑はお掛けしません」
「いやいやいや、来てる時点で迷惑かかってるからね」
「あ、夕飯のデザートにと思ってケーキ買ってきたんですけど」
「――よし、ヅラ君。今日も一緒に寝ようか」
そうして結局、今日も明日も賑やかな夜。
fin
モドル
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