いつものこと。


『森羅万象』
 それは智であり、人を超えた力だという。詳しいことは彼にも解っていない。だが、彼が一生ついていくと決めた首領が欲し、また、同時に今は、彼の横で寝息を立てている少年の欲する力でもあるらしい、ということが解っていた。
 自ら何かを欲しい、と口にしたことはほとんどない、与えられるもので生きている、そんな風にも思える少年が初めて執着したもの。
 少しずつ、ほんの少しずつ変わり始めていた少年が、森羅万象に何を見出したのかはわからない。だが、もしかしたら。
 希望と期待。忍びの生活からはほど遠い言葉が何となく頭を過ぎる。そこまで考えてふと手にしていたビール缶を下ろし、「何の希望だ」と口に出した。
「……」
 口にしたと同時、寄りかかっていた黒い頭が寝返りをうつかのように反対側へと転がる。ソファの端から落ちないよう、雪見は缶を持っていない側の手を伸ばして自分の肩の方へその頭を転がし直した。
 白すぎる顔の上に細い黒髪が落ちてかかるのを、相手を起こさないようにしながら親指で除けてやる。整いすぎた顔立ちには寝ている間にも僅かの苦悶が浮かんでいたが、その表情は眼を目を開いている時よりも遥かに穏やか──ではあった。
 そんな少年の顔を横目に見ながら、雪見はビールを傾けた。可愛い、と言うと殴りかかる癖に、格好いい、というと照れるあたり、16歳の少年らしいと言えば少年らしいのかも知れないが、普段はまったく可愛気のない──、
「あ、そうでもねえか?」
 雪見は白い泡の鬚を口の端に残したままで呟いた。
 雪見が告げた言葉を──大分時間が経ってからではあるが──恐れるようにおずおずと、もしくは本当は気にしていないんだと言わんばかりのわざとらしい素っ気無さを持って繰り返す、そんな少年の言葉の切れ端が、幾つか頭に浮かんだからだ。
 ふらりと出ていっては何処かに消え、しかし……彼の元に帰って来る、黒い子猫。
「ふん」
 ビールを再び傾けた。どうなのだろう、それは。単なる獣と同じ帰巣本能のようなものか、もしくは餌をくれる相手、というだけのものなのだろうか。いや、だが組織のことも多少は考えているようだ、と、ちょっと前にそう感じたことがあったばかりだ。もしかすると、ほんの少しぐらいは……、
「な、こたねえやな」
 苦笑を零した。首を振って、その可能性を頭から追い払う。しかし、そこで、不意に缶を傾ける手が止まった。理由は中身がなくなったからでもあったが、それ以外にもあった。
 何かと間違えただけかも知れない。夢で何かを見ているだけかも知れない。だが、ほんの僅か、一瞬だけ、彼の肩に寄りかかるようにして眠っている少年の手が、雪見の服の裾を握った……気がした。
「……あー」
 口を開いたまま、後の言葉を出すことなく、ただ後ろ頭をかく。そのまま眠っている間も手袋を外すことのない少年の手を見下ろした。
「いるって、おい」
 少年に聞こえるかどうかは解らなかった。最近では、言葉を投じても返事をしないことが増えてきた。それは彼を無視しているのではなく、本当の意味で「聞こえない」のだと。
 禁術の削る命の一部が、目に見える形で減っていく。それの証なのだと、
「──ちっ」
 手にしていた空のビール缶が、微かな音を立てて潰れる。しかし、後は言葉を出すことなく、かといってその場から動くこともなく、雪見は大きく息を吐いてソファの背に身を沈めた。

 暖かい。気がする。解らない。
 混沌としたまどろみの中、冷え切った身体と心の何処かが、少しだけ暖かくなった。流れ出たまま留まらない命。そして、何処にいるのか解らない自分。自分? ここにいるのは本当に自分なのか? そして誰なんだろう。僕は。違う、僕は……、
 狂気と言うのだろうか。いや狂気ですらない。無だけがたったひとつだけの僕の救い。救い? 救われる? 死にたい? 死にたくない? でも消えたい。死にたくない。どうして。誰か……!
 無意識に手を伸ばした。その手が、何かを掴む。
 暖かなものが頭の上に触れた。
 涙が止まった。腕から力が抜ける。何もかも変わることはなかったけれど、それでも、とめどなく絶え間ない思考の渦が薄れた。
 混沌は闇に変わり、意識は暗い空間の奥へと沈んだ。闇は、穏やかだ。

「……人の気も知らねぇで」
 寝る子は育つ。誰かに言われた覚えがあるが、酔った頭では思い出せない。いや、言われたのは俺ではなかったろうか。ふん、どちらでも構やしねえ。
 べこべこに潰したアルミ缶を、離れたゴミ箱に向けて放り投げた。軽い音を立てて箱の中に缶が消える。
「で、俺はいつまでこうしていねえといけねえのか、聞いて──も無駄か」
 大きな嘆息とともに、ほんの僅かに肩を竦める。室内でも被ったままだった帽子の上から置いた手を下ろすと、自分の肩に凭れた黒い頭が落ちないように注意深く腕を伸ばして、ソファの端にあった膝掛けを毛布代わりに少年の肩へとかける。
「ふん。もう1本持ってきとくんだったな」
 酒。手持ち無沙汰になって、かといって見たいテレビもない。やりたいことは表の世での仕事だが、それをするにはパソコンデスクの方に移動しなければならないので、
「あー、解りましたよ、はいはい」
 ぶつぶつ文句を呟いて、このところ彼自身もあまり取っていなかった行動を実行すべく、雪見は眼を閉じた。
 俺も寝ろってことだろ。
 文句は口の中から頭の奥へと消えていった。

「先輩、お邪魔します」
「雷光さんって、合鍵持ってるんだ?」
「まさか」
 ピンクの頭をした繊細な顔立ちの青年が、邪気のない笑顔を、彼以上に邪気のない笑顔と黒い翼を背に生やした少年へと向ける。
「雷光さんが、合鍵などという無粋なものを持ち歩くわけがない! 無論、鍵は」
「忍者に鍵は必要ないと思わないかい?」
「うん。そういえばそうだよね!」
 顔だけは邪気のまったくない、邪気のすべては声音と表情と背中と尾とにこめた返事が戻された。
「でも先輩が今日は静かだね。いつもは鍵を破って入ると楽し気な声が響くのに」
 またもや邪気のなさそうな声を発して雷光が、入口から奥を覗くと、電気が煌々とついたごちゃごちゃした部屋が見えた。我雨がいつもの如く、雷光さんにお怪我があってはとぶちキレて、通路の確保に走り出そうとするのを、雷光がエルボーを叩き込んで止める。
「しー。私は確かにいつも、先輩が困っている顔を見るのが大好きだけれどね」
 微かな笑みが、青年の口元に浮かぶ。
「あと少しだけ静かにしておいてあげよう」
「宵風も寝てる?」
 壬晴が声を落として囁く。うん、と雷光が頷くと、先のエルボーのショックから復活した我雨が、音を立てないようにして通路作りを開始した。
「たまにはね」
 雷光は微笑んだ。そしてその顔のまま、片付けを開始した我雨の手に、ぽんと近くに落ちていた油性ペンを渡す。
「ねえ、我雨。私達は隠の世に生きる者なのだから、どんな時にも警戒していないといけない。先輩も、きっと私達が常にその心構えを忘れないことを望んでいると思うよ」
「はい、解りました、雷光さん!」
「しー」
 指を1本立てると、雷光に命じられたことを実行しに、マジックを持って特攻する我雨。
 それを見送ったまま、自分では1歩も玄関から動かない雷光を見て、壬晴が何か頷いた。
 我雨の悲鳴と雪見の怒声と、ついで何かぷち、と切れたような物音の後に、わ、馬鹿、無駄なときに綺羅使おうとすんな! という叫び声と、色々なものが入り混じった混沌とした空間を、玄関という最も安全なスペースから眺めて、雷光と壬晴はいい笑顔を3人に向けた。

「子どもに関わると大人は腐る、ねェ」
 ぼろ、とあちらこちら、どこかぼろけた雪見は、部屋を神経質に片付ける我雨を見ながら愚痴った。
「腐る、ってんじゃねえ。多分な。胃がヤラれる、の間違いだ」
「先輩、笑っていますよ」
 横からピンクが、彼の方を見もせずに突っ込んだ。ふん、と顔を、壬晴と話す宵風の方に向ける。
「……ま、いいさ」
 大きく嘆息すると、彼は今度こそ深くソファに沈みこんだ。
 眼を閉じたとき、なじみのある気配が側を通った気がした。
 おや、す……、と途切れた声が聞こえた気がするのは、きっと気のせいだったのだろう。
 ああ、おやすみ、と返した気がするが、雪見はよく覚えていなかった。

        end

モドル
※まるで雪見ファンのようですが雪見好きです。ああ俺は雪見も好きさ。そうさ好きさ。とか誰かのように言ってみます。帷先生はすごい勢いで別格なのですが。何だ。隠の王は、皆がどれもこれも仲良しなので、何だか妄想が幾らでも広がります。で、相変わらず確認したのは宵風の一人称が漢字だったかどうかというだけでした。そろそろちゃんとキャラの言葉を正そうと思います。でも兄ちゃんと妹の話も書きたいです。(ドSの方の)そしてピンク兄と我雨のセリフだけちょっと修正。雪見は喋り方がムズいことが判明。頑張ろう。